1876年の8月には反乱はなんとか終息に向かったが、反乱がほとんど鎮圧された頃、オスマン帝国による住民虐殺の噂が流れ、ヨーロッパに衝撃を与えた。汎スラヴ主義を掲げるロシアは、この状況を利用してオスマン帝国領を割譲させるために介入しようと画策した。1876年末から1877年始めにかけて、イタリアも加えた列強はコンスタンティノープルで和平案を協議したものの、オスマン皇帝は改革を監督する国際代表団の受け入れが独立をおびやかすことを懸念して、発布されたばかりのオスマン帝国憲法の条文を楯に、列強の要求を強く拒絶した。これを受けて、1877年4月24日、ロシアはオスマン帝国に宣戦布告した。オーストリア・ハンガリーは、ライヒシュタット協定(戦争によりロシアがベッサラビアを、オーストリア・ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナを獲得することを約束した)に基づき中立を保持した。イギリスは、南アジア方面でのロシアの脅威を危惧していたが、戦争には介入しなかった。孤立したオスマン帝国にロシアは圧勝し、1878年2月、サン・ステファノ条約を結んで以下の要求を認めさせ多額の賠償金を得た:
ルーマニア、セルビア、モンテネグロの完全な独立
ブルガリアの実質的な独立
ボスニア・ヘルツェゴビナでの改革
アルメニア人の多い東部アナトリアや、ドブロジャのロシアへの割譲
ロシアは新たな独立国に対しても保護権を確保し、南東ヨーロッパでの影響力を増大させた。
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しかし、このようなロシアの勢力拡大に対しイギリスをはじめとする列強は反発し、同年6月、ベルリン会議を開いてサン・ステファノ条約を見直し勢力調整をはかった。ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立はそのまま承認されたが、その境界は狭められた。ブルガリアはロシアの影響力を警戒されて大きく二つ(ブルガリアと東ルメリア)に分割された。ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアの管理下におかれた。ベルリン会議によって、列強間の利害問題としての「東方問題」は外交的に一応の決着がつけられた。