御館の乱(おたてのらん)は、1578年の上杉謙信急死後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康)との間で起こった越後の内乱。御館とは、謙信が関東管領上杉憲政を迎えた時にその居館として建設した関東管領館のことで、春日山城下に設けられ、後に謙信も政庁として使用した。
天正6年3月9日(1578年4月15日)、上杉謙信は春日山城の厠で「不慮の虫気」のため倒れ、意識が戻らぬまま13日(19日)に死亡した。
景虎が謙信に代わって雲門寺など寺社への新年祝賀の礼状を送っていたことや、軍役を課されないなどの優遇措置をとられていた点などから、景虎が後継者であったという説がある。越相同盟が破綻する元亀2年(1571年)頃までは北条家を実家とする景虎が上杉家と北条家の取次ぎに重要な役割を担っていたことが明らかであり、翌年初頭には謙信の寵臣である河田長親から送られた陣中見舞いへの礼状が残存するほか、同盟以来景虎とは非常に縁の深い柿崎家の文書には少人数の動員ながらも松木加賀守らに軍役を命じた書状(当時、軍役を命じる文書は必ずしも大名とその後嗣にのみ見られるわけではないが)も残っている。
しかし一方で、景虎に軍役が課されなかったことの根拠とされる天正3年(1575年)の上杉家軍役帳は必ずしも上杉氏の全軍事力を網羅したものではなく、関東その他の地域の在番衆などを除く本国越後の春日山城周辺から動員が可能な諸士にのみ記載が限られていることから、景虎の名がないのは作成時期と地域における軍事力・秩序区分から除外されたためであり、したがって軍役の記載がないことが優遇措置ひいては景虎後継者説の論拠には直結しないという見解もある。
この軍役帳の記載からは、謙信が景勝を他の上杉一門衆(山浦、上条、古志など)をしのぐ最上位に位置づけていたこと、家中最大級の兵力を担わせていたこと(最大の兵力を擁したのは山吉豊守である。天正5年(1577年)の豊守(盛信?)死後、その家臣団の一部は景勝直属部隊である五十騎組に配され、景勝の権力基盤である上田衆の中に組み込まれる)、また家臣たちの景勝に対する呼称が謙信への尊称である「御実城様」と類似した「御中城様」であったことも示唆され、他の一門衆が「十郎殿」などと通称や姓に「殿」付けで記されている(山浦国清と上条政繁は謙信の養子ではあるが、分家の当主となった)のに比し、謙信と同じく「御」「居住場所(中城)」「様」で敬称されている景勝は謙信の養子のなかでも高い地位を与えられていたことがわかる。
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また、謙信が上田長尾家当主として長尾顕景を名乗っていた景勝に天正3年(1575年)、上杉景勝の名を与え弾正少弼を譲っていることから、晩年の謙信が景勝の更なる地位の補強を図っていたという見方もある(ただし弾正少弼を与えることで関東管領職候補から景勝を外す意図であったとする意見もある)。
謙信が没する直前の天正5年(1577年)12月に作られた上杉家家中名字尽手本には、景勝の名は記載されておらず、この頃には上杉家家臣・上田長尾家当主としてではなく、謙信の子として扱われている事が伺える。
上記の官途の問題も影響し、謙信は関東管領職を景虎に、越後国主を景勝にそれぞれ継がせるつもりであったと論ずる研究者もいるが、いずれにせよ現段階の研究では、景虎の関東管領・景勝の越後守護相続による分権説、景虎と景勝のどちらかを唯一の正統な後継者と目する説のどれも通説とは言い難い。